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【オリバー・ヘヴィサイド】無頼の物理学者

本日も、りけいのりがお届けします。

 

皆さんの夢は何でしょうか?

有名人になる、お金持ちになるというような小学生じみたものから。

サラリーマンになりたい公務員になりたいと言った堅実的なもの。

海賊王になる宇宙人になると言った頭のおかしいもの。

様々でしょう。

 

私の夢は、晴れた日には畑を耕し、雨の日には本を読む、晴耕雨読を地で行くような生活をするというものです。

 

さて、彼が晴れた日に農業をしていたかはわかりませんが、その一生の殆どを自宅における研究に捧げた、変態的な物理学者がここにいます。

 

その名は、オリヴァー・ヘヴィサイド。何者にも頼らない無法者という意味で、無頼の物理学者と、ここでは呼びましょう。

 

理系の人なら、一度はその名を聞いたことが有るはず。その業績のいくつかを箇条書するとこんな感じです。

みなさんも心当たりの有るものがいくつか有るのではないかと思います。特に今では物理数学と呼ばれている分野において、多くの功績を残したことがわかります。

 

この記事では、彼の業績の解説をするのではなく、彼の半生を詳しく見ていきたいと思います。

 

目次は以下のようになっています。

それでは早速、無頼の物理学者ヘヴィサイドの半生を見ていきましょう!

オリヴァー・ヘヴィサイドという人

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SuperGirl at en.wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons

オリヴァー・ヘヴィサイド(1850〜1925)

聴覚障害を負った幼少期

オリヴァー・ヘヴィサイドは、ロンドンにおいて、木工彫刻師・水彩画家である父トーマス・ヘヴィサイドと、近所の子供向けの私塾を開いた母レイチェルエリザベスの間に、4人兄弟の末っ子として生まれました。幼少期に、猩紅熱(小児に多く見られる発疹を伴う伝染病)に見舞われ、一時的に耳が聞こえなくなります。このせいで、彼は他の子どもたちと上手く交わることができず、不遇の幼年時代を過ごすことになります。

学校を辞めざるを得なくなる

彼の育った地域は、作家チャールズ・ディッケンズも幼年時代に不遇を強いられた、ロンドンにあってもとても貧しい地域であり、両親はオリヴァーを学校に通わせるのも大変でした。祖父母の遺産が入ったことで、別の場所に引っ越し、少しは暮し向きもよくなったようです。

 

オリバーは、優秀で学校でも500人中5番目になるほどだったようですが、両親はオリバーを学校に通わせるほどのお金が捻出できなくなり、16歳にして、教育課程からドロップアウトします。

叔父ホイートストンとの出会い

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Samuel Laurence, Public domain, via Wikimedia Commons

チャールズ・ホイートストン(1802〜1875)


恵まれない時代が続いた彼は、他方で特権的地位を持っていたともいえます。それは、叔父に、ロンドンのキングスカレッジの物理学者であり、電気通信の発明家でもあった、チャールズ・ホイートストンがいたからです。

 

ホイートストンブリッジと聞けば、理系の多くの人は聞いたことが有ると思います。キルヒホッフの法則の威力が発揮される、もはや大学入試では典型的な問題である、あのホイートストンブリッジです。

 

ヘヴィサイド家の息子たちは、皆ホイートストンに頼り切りだったのですが、オリヴァーもご多分にもれず、既にホイートストンの事業を手伝っていた兄の手伝いを始め、1868年にはデンマーク大北電信会社(現在は改称してGN)に就職します。

何故か仕事をやめる

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 当時電気通信の分野は活発で、大北電信会社には、高度な設備が整っていました。そこでの仕事において、オリヴァーは自然と電気測定や電気通信の分野に興味を持ち始めたのです。

 

しかし、1874年当時24歳で、彼は突然仕事を辞めてしまいます。会社では能力の有るエンジニアだったようですが、自分の能力に見合わない仕事は断るなど偏屈な面もあり、また体調も芳しくないことがおおかったようです。それが理由だったのか、仕事を辞め、その後は、実家に戻って空き部屋にこもりきります。

 

しかし、そこで何もしないわけではなく、仕事をする内に興味を持ち始めた、電気学の分野の研究を日夜続けたのです。もしかしたら、研究に没頭したいがために仕事を辞めたのかも知れません。本人に聞いてみないことにはわかりませんが。

 

悠々自適の年金生活から、奇行の目立った晩年へ

兄の援助を受けながら自宅での研究生活を続けたオリヴァーは、その革新的な仕事から次第に認知を得て、現在にも残る偉大な業績をあげていきます。1891年には英国王立協会フェローに任命され、1896年には科学者仲間の尽力で、年に120ポンド(後に220ポンド)の年金を受け取るまでになります(1894年には一度受け取ることを拒否している)。

 

しかし、後年になると体調の悪化や、多少の妄想の症状が現れ、物理学者として仕事は、実質的に1905年には止まっていたようです。

 

晩年は一人で、貧しいにもかかわらず大きな家に住み、庭や部屋は散らかりっぱなし。料理もしないので、親しい近所の警官が料理を運びに来ていたという話もあります。手紙に'W.O.R.M'というへんてこな名前を書いたり、爪をピンクに塗るなど、の奇行も目立っていたようです。

まとめ

無頼の物理学者は、孤独を愛し偏屈であったが故に、学問的常識などというものに忖度すること無く、当時としては革新的な業績をいくつも挙げられたのだと思います。失意の晩年はある意味で必然だったのかも知れません。天才と変人は紙一重の違いといいますが、本質的には一緒なのでしょう。本質的な変人だったオリヴァー・ヘヴィサイドは、そうだからこそ天才たり得て輝かしい中年時代を過ごし、盛者必衰の理には逆らえずに、晩年ただの変人と化した。むしろ尊敬を込めて、私は、彼の人生が羨ましいと思っています。

参考文献

「Oliver HeavisideA first-rateoddity」 Bruce Hunt, University of Texas

http://fep.if.usp.br/~fbrandt/fisica4/OliverHeavside.pdf

WikipediaのOliver Heavisideの記事

Oliver Heaviside - Wikipedia

MacTutor History of Mathematics Archive(約3000人に及ぶ数学者の経歴が載っているページ)

https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Heaviside/